時代劇ヒーローの矛盾を突く!暴れん坊将軍・水戸黄門・銭形平次

公開日:  最終更新日:2016/08/13

水戸黄門

時代劇には数多くのヒーローがいますよね。
中でもとりわけ印象深いのは「暴れん坊将軍」と「水戸黄門」と「銭形平次」ではないでしょうか。

なぜそう思うかといえば、ほとんど見たことがない私でさえ、これらのドラマはテーマソング込みで思い浮かぶからです。
だから、これらは時代劇を見ない人でも名前くらいは知っているのかな?と。
他に遠山の金さんもとても有名ですが、金さんに関しては多くの役者が演じ過ぎて、これだ!みたいな個性にちょっと欠ける気がします。
(水戸黄門も多くの役者が演じてはいますが…)

さて、今日はそんな時代劇の主役たちが、本当にドラマの世界のようにヒーローだったのか?に着目して、こう言っては元も子もないような、しょうもない突っ込みを入れてみようと思います。

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暴れん坊将軍の矛盾

暴れん坊将軍はご存知のように江戸幕府八代将軍の徳川吉宗です。

吉宗は歴代の将軍の中でも特に名君として有名で、将軍という地位にありながらも生活は質素で倹約家、またリーダーとしても政治家としても高い資質を備え、多くの偉業を成し遂げました。
特に享保の改革では米価低下や物価の安定政策を敢行し、貨幣政策を行って幕府の財政を安定させたと言われています。

また、庶民の生活にも目を向け、目安箱を設置したり、目安箱の投書から病気や貧困に苦しむ者の救済を目的に小石川養生所を設置した話などは耳にしたことがある人も多いでしょう。

さて、そんな吉宗ですが、ドラマ「暴れん坊将軍」では、庶民に扮して町人仲間と悪事を暴くという役どころ。
頻繁にひとりで江戸の街に出かけては「毎週」悪人を成敗するわけです。

ところが現実問題としては、治安が良くなかったこの時代に、将軍がお供もつけずに街中をひとりで出歩くか… というと、どう考えても防犯上ありえませんよね。
テレビもネットもなかった当時ですから、たしかに髷(まげ)を変え、町人のいでたちで出かければ、誰も顔を知らないので、まさか将軍様だと思わないというのもありますが、悪人相手に大立ち回りを演じるなんてことは、やっぱりまずありえません。

さらに、一番の見せどころ、悪人を前に暴れん坊将軍こと吉宗が「余の顔を見忘れたか」と言うシーン。
悪人はみな一様に、一瞬誰なのか分からないものの、やがて思い出してアホ面するところですね。

この場合、悪役の多くは大名家の家老か旗本、あるいは大名自身だったりします。
ドラマの中ではたしかに顔を合わせていますが、実際の世界でも将軍様と顔を合わせる機会はあったのでしょうか?

家老が将軍の顔を見るチャンスは、将軍が大名屋敷にお成りになって玄関先で平伏(へいふく)する時ぐらいです。
旗本は正月や節句の際にお目にかかることは合っても御簾(みす)越しにやはり平伏状態。
大名もまた然り、挨拶できても御簾越しで平伏です。

だから、ドラマの悪者たちは、吉宗に「余の顔を見忘れたか」と言われても… はなから誰も将軍の顔など見たことなかったんですね。

水戸黄門の矛盾

人気時代劇といえば水戸黄門。
実はテレビドラマのみならず、映画としての歴史の方がはるかに長く、作品数は相当な数です。
それゆえ、黄門様を演じた役者さんも多いのですが、一番馴染むというかしっくりくるのは、テレビで最も長く黄門様を務めた東野英治郎さんではないでしょうか。

東野さんが降板されてから、テレビシリーズが終わるまで4人の方が黄門様を演じ、最後の里見浩太朗さんなどは、東野英治郎黄門の時の助さん役だったなんて珍現象もありますね。
助さんを演じて、後に黄門様に昇格(?)するのはどんな心持だったのでしょう。

さて、黄門さんの矛盾にも突っ込みを入れたいと思います。

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水戸黄門で有名なセリフといえば、「この紋所(もんどころ)が目に入らぬか」というものですが、そのあとに続く「前(さき)の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ」に突っ込みどころがあるんですね。
実は「前の副将軍」の副将軍、こういう役職は江戸幕府内になかったんです。

水戸藩二代目藩主である徳川光圀は徳川家康の孫にあたりますが、水戸藩主は参勤交代しないで江戸に駐在して将軍の補佐を務めたため、ドラマでは副将軍という肩書きというか役どころになったのでしょう。

また、水戸黄門のストーリーの根底にあるのは、諸国漫遊、全国世直し行脚ですが、実は光圀は全国どころか関東からほとんど出たことがなかったそうです。
つまり「全国世直し行脚」には出かけていないと…。
当然のように「うっかり八兵衛」も「風車の弥七」も「かげろうお銀」も存在しません。テレビの中だけのものです。
でも助さんと角さんは実際にモデルとなる人物が存在します。

黄門様こと徳川光圀が一生を捧げた事業に「大日本史」の編纂がありますが、この編纂に携わった佐々木十竹(ささきじっちく)と安積澹泊(あさかたんぱく)という人物が、助さん角さんのモデルだろうと言われています。

銭形平次の矛盾

神田明神下に暮らす岡っ引きの平次が、子分の八五郎とともに「毎週」事件を鮮やかに解決する!というお馴染みの捕物帖「銭形平次」。

ここまでの「暴れん坊将軍」の徳川吉宗や、「水戸黄門」の徳川光圀のように現存したモデルはおらず、「銭形平次捕物控」が原作。著者は野村胡堂です。
したがって、平次は全くの架空の人物、さらに劇中で投げられる寛永四文銭も創作によるものです。

さて、銭形平次が架空の人物なのは分かりましたが、当時の岡っ引きが下手人を取り囲み「御用だ!御用だ!」と捕らえていたのか… といえば、ここが突っ込みどころで、そういう事実はありませんでした。

そもそも岡っ引きですが、時代劇のシーンから想像するに、現在の刑事(デカ)というイメージはありませんか?
そして奉行が警察署長、同心が捜査本部長みたいな。

ところが岡っ引きというのは、実は逮捕権(御用だ!)はなく、且つ奉行所に雇われている身でもなかったそうです。

岡っ引きは、目明し・御用聞きなどと呼ばれ、普段から社会一般の情報収集に励み、事件などが起こると聞き込みなどをして奉行所の同心に報告する、といった役目だったんですね。
奉行所に雇われていない以上、岡っ引きは各自それぞれ本業をもち、それで生計を立てていたといわれます。

それぞれの岡っ引きたちは、ある決まった同心の専属で、各同心は自分で使う岡っ引きをわずかな給金で自分専用に雇っていました。
だから奉行所は誰が岡っ引きなのかは把握しておらず、同心同士も誰が誰の岡っ引きなのか分からないし、暗黙の了解のもとに秘密にしていたそうです。
なんだかCIAのスパイに雇われて諜報活動してる情報提供者みたいな感じですね。

実際に優秀な岡っ引きは民間の諜報部員のようなもので、一般の人々にその存在を知られないように生活していたといいます。
優秀であればあるほど人知れず事件の防止や解決に努めたそうで、雇っている同心としても自分の手柄のために誰が岡っ引きなのかは誰にも教えたくなかったのが想像できますね。

岡っ引きは基本的に捕り物には参加しませんでしたが、緊急の場合のみ、同心の許可を得て捕縛に参加できたといいます。
そして、その時だけ房なしの十手を使うことが許可されたそうです。
時代劇で見る十手は立派な房が付いていて、岡っ引きなら絶えず携行してそうなイメージですが、実際は房もなく、臨時で貸与されるものだったんですね。

まとめ

暴れん坊将軍は町人に扮して街に出ることはなく、水戸黄門は全国を回っていないし今でいうところの経歴詐称、銭形平次は捕物に参加しないし十手も持ってないという、散々な結果になりました。
まぁ、世の中には突き詰めない方がいいものも多いということですが、今日の話題はある意味シャレということで、大して得にもならないお話しでした。(笑)

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