明太子はなぜ博多なのか?明太子のルーツや歴史

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博多明太子

博多のお土産といえば、まず思いつくのが「明太子」でしょう。

しかし、明太子はタラコ、それもスケトウダラの卵(子)が原料ですが、スケトウダラの漁場はもっと北のイメージです。
少なくても福岡で豊富に水揚げされるイメージはありません。事実、日本におけるスケトウダラの主な漁場は北海道と三陸です。

では、なぜ明太子は博多なのでしょう?

そんな素朴な疑問から、今日は明太子のルーツを探ってみました。

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明太子のルーツ

先に答えを書くと、明太子のルーツは朝鮮半島にあります。

「あっ、なるほど、福岡はたしかに朝鮮半島に近いもんね!だから博多なんでしょ?」

そう思ったかもしれませんが、実は地理的に近いことは関係がありません。
その辺は後述しますが、先に食としての明太子について触れておきましょう。

朝鮮半島といえば韓国。
もちろん北朝鮮も上の方にありますが、日本とは国交もないし、それに半島のほとんどは韓国で占められています。

そして韓国といえば… キムチですよね。
韓流ドラマが先に思い浮かぶ人もいるでしょうが、やはり焼肉とかキムチのイメージが強いでしょう。
白菜のキムチとか大根のカクテキ、キュウリのオイキムチなど、とにかくキムチは日本でも広く売られているし人気も高い食品です。

そして、キムチといえば唐辛子。
朝鮮半島ではなんでも唐辛子に漬け込む食文化があって、実は明太子もその一つなんです。

もちろん「めんたいこ」なんていう発音ではありません。
明太子はスケトウダラの卵(子)ですが、あちらではスケトウダラは「ミョンテ」といい、その卵は「ミョンテコ」といいます。
これが転じて「めんたいこ(明太子)」というわけです。

戦前、朝鮮半島にはたくさんの日本人がいました。
後に「ふくや」の創業者となる川原さんという人もその中の一人です。
「ふくや」は明太子を生み出した会社(当時は商店)です。

川原さんは子供の頃から釜山に住んでいて、小さい頃からミョンテコを唐辛子漬けにする光景をよく目にしていたそうです。
ちなみに、スケトウダラの漁場は日本では北の方と先述しましたが、朝鮮半島付近でもスケトウダラは水揚げされます。
そのため、ミョンテコも唐辛子漬けのポピュラーな材料でした。

また、釜山あたりは九州から近く、日本人も多かったことから、売られているミョンテコは日本人の口に合うよう工夫されたものだったようです。
そんなことから川原さんにとって、ミョンテコはお気に入りのご飯のおかずだったんですね。

日本版「博多明太子」の誕生

時は経ち、戦後、川原さんは奥さんと共に日本に引き揚げてきます。
そして博多の中州に「ふくや」という乾物屋を開業します。
なんと明太子の「ふくや」は開業当時は乾物屋だったんですね。明太子は生ものですから乾物とは正反対で、ちょっと以外ではあります。

開業時のふくや

その後、川原さん夫婦は、朝鮮で日常的に食していたミョンテコの味が忘れられず、自分たちがあんなに好きだったのだから日本でもニーズがあるだろうと、乾物屋であるにも関わらず、韓国からミョンテコを仕入れて販売を開始。

ところが、予想に反して売れ行きはさっぱり。

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不思議に思ってよくよく考えてみると、仕入れたミョンテコは韓国人の味付け、対して川原さんが昔食べていたミョンテコは日本人向けの味付け。
つまり、仕入れたミョンテコは日本人の口に合わなかったわけです。

戦争も終わり、日本人も去った韓国では、もはや日本人向けのミョンテコを作る必要もないことから、川原さんの仕入れたミョンテコは韓国の普通の味付けでした。
これでは売れないわけだ…。

普通はそこで話は終わるんですが、この川原さん、諦めませんでした。
そこから自家製造の挑戦が始まるんです。

北海道からタラコを仕入れ、昔食べたあの旨かったミョンテコを再現しようと試行錯誤を重ねます。
ところがこれがなかなかうまくいかず、作っては捨て、作っては捨ての繰り返し。
ようやく納得できる味が再現出来て発売にこぎつけたのは昭和24年1月。いわゆる日本版「明太子」の誕生でした。

誕生の地が博多。
それが明太子は博多の理由です。

明太子がメジャーになるまでの長い道のり

しかし、苦難は続きます。
そこから10年はまったく売れなかったというのです。

今でこそ、ポピュラーな存在になった明太子ですが、当時は知名度もなく、博多という一地域で売っているマイナーなものでした。
さらに、博多の中州といえば今でこそ一大歓楽街ですが、当時は戦争の爪痕も痛々しい、まだまだ復興途上の状態だったので、珍しいものを置いても売れるわけもなかったのです。

結局その後10年間、あまり売れることはなく、作っては捨てるという開発途上と同じような状態が続きます。
ようやく売れる兆しが見え始めたのは、中州に賑わいが戻り始めた昭和35年頃からといいますから、本当に長い期間鳴かず飛ばずの状態で苦労が続いたわけです。

店の立地が中州だったのが幸いして、徐々に小料理屋などに浸透し、酒の肴・珍味として重宝がられるようになり、人気と知名度が上がっていきます。

折も折、昭和39年には東京オリンピックが開催されることから東京-大阪間に新幹線が開通しました。
あわせて高速道路網も整備されだし、流通経路が向上したことで地方の特産品が続々東京に集まるようになっていきます。
そんな流れに乗り遅れることなく、「ふくやの博多明太子」も東京に進出して「博多の味」として高い評判を得ることに成功します。

やがて新幹線が博多まで延伸されると、明太子は博多土産としての確たる地位を確立し売れ行きは上昇の一途。
当時はまだ「ふくや」以外、明太子を製造販売しているところもなく、デパートが現金持参で購入し、自店に並べたなんて逸話もあるほどです。

そうして、今や明太子は全国区になり、ご飯のお供に酒の肴に日本中で愛されています。
しかしそこには一人の日本人のたゆまぬ努力と苦労があったんですね。

私のよく行くスーパーの明太子売り場では「ピリッとかねふく明太子~♪ 元気モリモリ♪♪」なんて曲がかかっていて、かねふくの方が頭に残っていますが、明太子は「ふくや」さんです。
「ふくや」がなければ、明太子は存在自体がなかったかもしれません。
これからは「ふくや」の明太子を買わなきゃなんて思った次第です。

まとめ

現在は明太子の製造業者は100社を超え、総売り上げ高は1,000億円を優に超えているといいます。しかし、そこには「ふくや」創業者の川原さんの人柄も大きく関係しているんです。

なぜかというと、この川原さん、明太子の生みの親なのに、商標権も特許も取得しなかったというのです。それどころか、乞われれば同業者に惜しみもなくノウハウを提供していたといいます。

儲かるものを人に教えるなんて、なかなかできるものではありません。
特許や商標を取得していたらどれだけの財を成せたことでしょう。
見上げた心意気ではありませんか。

明太子、これからはもっと有り難くいただかないといけませんね。

掲載した写真は、ふくやさんのホームページからお借りしました。

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